2019.03.11
どうやら人はほかの人からの評価を気にするもののようである。人に良く思われたい、人に悪く思われたくない、と云うのは歳を重ねてもなくなるものではないらしい。同時に人を評価するくせもまたなくなりそうにない。
社会においてもそうであろうが、ややもするとあの者は出来る者だ、あの者は使いものにならない、と云うことになる。
確かに、人より仕事の出来る人がいる、人より早く走れる人がいる。しかし世の中にはもっと出来る人もいるかもしれない。こんなことは、いつまでも続かない。やがてはもっと出来る人に取って代わられる。
人の評価ほどあてにならないものはない。そもそも自分の何が人にわかると云うのだ。自分がほかの人の何がわかると云うのだ。評価は人の上っ面のほんの一分でなされているのだ。ところが、そのあてにならないものに私たちは右往左往をさせられる。正当に評価されない為に苦しむこともあろう、過大に評価された為にそのギャップに苦しまなくてはならないこともあるかも知れぬ。評価をすることも、評価を気にすることも、ともに迷い苦しんでいる姿かもしれぬ。
人は人の評価の為に生きているのではない。仏教はそのような処に価値を見ない。人は誰一人として本人の代わりは決して誰も務まらない、評価のできようもない絶対の存在である。
数学者の岡潔さんの言葉を紹介しよう。
「スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうとスミレのあずかり知らないことだ」
皆なそれぞれがそれぞれの花を咲かせていただきたい。いや、皆な既にそれぞれの花を咲かせていると云うべきか。
2018.05.19
人はいつでも幸せになりたいと願うのがお互いさまではありますが、「幸せになりたければ、その幸せになりたいと思う心を捨てなさい。そうすれば幸せになることができます」と、先人は云います。
ではお互いはどうなれば幸せになるのでしょう。会社で社長になれれば幸せなのか、試験で一番になれれば幸せなのか、お金が沢山貯まれば幸せなのか、マイホームを手にすることができれば幸せなのか、好きな人と結婚できれば幸せなのか。確かにそうかもしれません。しかし、そうなった時、その先はどうなるでしょう? 新たな先を見つけるのか、新たな先を作り出すのか。この幸せさがしの道は果てしなく続きます。そして、いったいどこまで続くのでしょう。
近年は脳の研究が進んできていて、嬉しいことがあると脳の中では幸せホルモンが分泌されるそうです。ところが、その幸せホルモンは一旦欲求が満たされると、それを打ち消す別の物質が放出されて永遠には続くことはありません。次の幸せホルモンの訪れを待つことになります。よって、欲にきり無しといわれるように、この幸せさがしの道は延々と繰りかえされるのです。
ところが、その幸せホルモンの分泌が持続される方法があるのです。それは、求めるのではなく、全てを受け入れる心がそれを持続させるというのです。
お互いが「幸せになりたい」と思う時は幸せではないのでしょうか?今ここにこうして生きていることこそ奇蹟ではありませんか?誰しも意識もせずに、息を吸って吐いている。この何の変哲も無い姿にこそ、ほんとうの幸せがあふれているのです。
確かに目標を持つことは尊いことです。その目標が達成された時の喜びもまた格別です。しかし、天地の姿のままに受け入れ、全てをお任せできた時、無上の幸せが訪れるのもまた真実であります。それを『安心の世界』というのかもしれません。
2016.01.01
皆さま方には平等に平成丙申の年を迎えられ、誠におめでとうございます。年頭にあたり、この一年が皆さま方にとって良き年とならんことを祈念申し上げます。
正月ともなると、多くの人はあれこれ目標を立てる。今年はこの様な年にしよう、今年は頑張ってこうなろう、と。大抵はそれが三日も続かないのだが、それを差し引いても良いことでありましょう。
しかしながら、自分で努力して到る世界はまことに狭い処です。その努力で到達出来る世界は宗教とは異なります。賢者は決して外に求めません。私たちは自己の脚下を顧みる時、自分が如何に素晴らしい存在かに気付くことでしょう、如何に素晴らしい世界が開かれているかに気付くはずです。
「偽」と云う字は人為、人が為すと書きます。これを偽(ニセ)と云う。生きている人間の、この素晴らしい姿は人為の及ばぬ処です。これをうたったものが佛教です。佛佛祖祖のベクトルは全て一つの方向に向かっています。
2013.04.05
日泰寺はお釈迦さまの御聖骨をお祀りしております。4月8日はそのお釈迦さまがお生まれになられた日です。この頃、境内の桜も見頃となります。
誰しも桜の花を見て、美しいと感じることと思いますが、もし世の中の全ての物が、山も川も海も、木々や建物さえもピンク色であるなら、桜の花を美しいと感じるでしょうか。桜の名所もさることながら、山に色づく一本の桜のなんと美しいことか。人は知らず知らずのうちに、まわりの色と桜の色を比較して、桜の花を美しいと感じているのです。
桜を美しいと思う理由がもう一つあります。それは希望です。早春の一見寒々とした景色を思う時、桜の花は草木の芽吹く希望であります。誰もが覚えがあることと思います。桜の花の下で母と手をつないで迎えた入学式、初めて就職をしたあの日のこと。それは期待と希望とに満ちていたことでしょう。
お釈迦さまはお生まれになられた時、『天上天下唯我獨尊』といわれたと伝わります。桜の花も、我々一人ひとりも、比較をする必要のない絶対の存在なのです。美しい桜がここにあるのです。